昔は日陰を作るだけでなく、日向を作り過ぎない心がけもまたあったようである。
日本中に残存する旧道であるとか、昔ながらの区画保全が行き届いている京都の道路
などを見ると、非常に幅が狭くて、今だと通用口かと思い込まれるような小道が多い。
昔の日本人は小さかったからとか、まだ車がなかったからとかも考えられるけれども、
長大な刀を差した侍などにとっては現代人よりも手狭だったろうし、
江戸期までにも引き車なりの車両相当の往来物は存在していたわけで、特に早馬に
蹴り殺されたりしないための道幅確保はあったほうが良かったように思われるが。
日本中の道路が拡幅されて、大型車両も通れるような道だらけになった今でこそ知れたのが、
無闇に道幅を広げないでおいたほうが、日向を減らすことによる暑熱対策にもなるということである。
当時の日本人がどこまで確信的にそのような心がけでいたのかは知らないが、
平安期の朱雀大路のような広大な道路の造成にも取り組んだことがあった上でのことだし、
全くのたまたまではなく、やはり聖賢の深慮遠謀もあった上での選択だったのではないか。
(平安期には現代人が履いているような靴が頻繁に利用されていたが、
足底筋の養生のために草履などへと簡素化して行ったのにも似た事例である)
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