それはおかしいな。
ではこれはどうか?
ある環境において一人の同じ人間がどんな行動をとるか?
環境は出来る限り同じにして複数回その人間の行動を観察する。
当然だが本人はどれ一回として、厳密に同じ行動はとらない。
なのになぜその人間を同じ人間といえるのか?
1年たてば人間の中の分子は全て口から取り入れた別の分子に置き換わるのになぜ同じ自分といえるのか?
またコピーする時にブラックボックスでコピーしたらどうなる?
当然周囲も、本人たちですらコピー、複製の区別はつかないよ?
区別は出来ても別物ではない。
もし複製とオリジナルを別人というのならば、今の自分と数秒後の自分は別人であって一貫性など無くてもよいという話になる。
自然界の情報は連続的であって環境変数をいくらいじって同じようにしようとしても同じには絶対出来ない。
例えば水にたらしたインクはどれ一つとして、同じようには広がらない。
それでも全体としては統率の取れた動きをする。
それから広がる速度を計算することもできるしある定点での濃度も予想に反することは無い。
同じ温度成分比の水に同じ種類のインクを同じ条件で落とすと、ある法則に従う。
それはどこの実験室で行っても同じだ。この法則に従う限りこれは厳密には同じ事象でなくとも、同じ試行とみなすことが出来る。
本人か別人かの区別もその程度のものだろ。
同じ遺伝子で同じ経験を所有していれば同一人物だろう。
>>その第三者は当然遮断された方が生きていた場合の行動は想定出来るわけもない だから
過去の記憶を共有してる部分で本人と認識してるだけです。
親しい人間の行動はある程度想定できるものです。
本人と認識していることと、本人とどう違うのか?
認識できればもはや本人ではないか?
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