禅書「無門関」第一則・趙州狗子
「趙州和尚にある僧が問うた。『犬にも仏性がありますか』 趙州和尚は答えた。『無!』」
山川草木に至るまで、全てのものには仏性がある(一切衆生悉仏性)というのが
仏の教えであるはずなのに、趙州和尚はそれに違う答えを返した。これは、
犬に仏性があるかどうかなどを問うてきた相手に内在する不埒さを見抜いて、
理論的に答えるよりもその不埒さを潰滅することのほうを優先したから。仏法の理論にも
違う「無!」という答えによってこそ、不埒さを撃滅された先にある悟りを開かせた。
「無門関」第二則・百杖野狐
「百杖和尚が人に化けた野狐に出会った。その野狐は『私はかつて、仏法を本当は大悟していない
迦葉仏の下で修行をしていた学生です。私が迦葉に『参禅修行によって因果に落ちることを
防げますでしょうか』と問いますと、迦葉は『因果に落ちることを防げるだろう』と答えました。
それ以来私は五百生に渡って野狐としての生を送らされ続けています。どうか私に悟りを
啓く言葉を聞かせてください』 百杖和尚は答えた。『因果を眩ましたりすべきではない』
途端に野狐は悟って畜生としての生を脱した。野狐の死体は山の裏手に見つかった。」
人間の分際で因果を超越しようなどと欲することがこれまた甚だしい不埒さの表れである。
その不埒さを助長するような答えを迦葉が返したものだから、学生も人間以下の野狐などとしての
生を五百回に渡って送らされることとなった。そこに百杖和尚が「そもそも因果をごまかすべきでない」
という言葉をかけてやったものだから、学生も悪業因果を解脱する悟りを啓いて野狐としての生を終えた。
いずれも、質問者自身に内在していた不埒さまでをも総合して展開される問答であり、
そのような不埒さがもたらす悪業因果を断滅する答えを趙州和尚や百杖和尚は返している。
だから、質問者自身が不埒さを内在していて、その不埒さを撃滅するための返答こそを
和尚たちが行っていることを察せない人々には、問答全体が不可解極まりないものとなっている。
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